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2018/5/21更新 上記の関連記事から、過去にも同じ様な人がいたため、まとめました。

■風船おじさんこと鈴木嘉和とは?
1992年に世間を騒がせた「風船おじさん」という人物がいました。

風船おじさんとは?
本名を鈴木嘉和。
職業はピアノ調律師。

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ピアノ調律師一家に生まれた鈴木嘉和さんは、長らくピアノ調律業を営んでいたのですが、44歳の時に音楽教材を販売する会社、ミュージック・アンサンブルを起業。
さらに音楽サロンや雀荘、コーヒーサロンやパブレストランなどを多角経営していたようですが、どれも上手くいかず、4億円以上もの借金を抱えてしまった。

風船おじさんは、後に事件となる『ファンタジー号』を使って借金の返済をしようと計画し始めたそうです。横浜博覧会では、ヘリウム風船を用いて10~20メートルほどの高さに浮くという【空中散歩】で客寄せをするなど、「ファンタジー号」のもととなるアイデアは出ていました。

■多摩川で飛行実験
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1992年4月17日。
最初に行われた風船飛行は、府中の多摩川から千葉の九十九里浜を目指すという大冒険計画から始まった。風船おじさんは、警察の制止を振り切って飛行を断行。5メートルと3メートルの風船を各2個を括りつけた椅子に乗って大空へと舞い上がった。

ここまでは風船おじさんの計画通りだったが、なんと椅子に付けていた重石の紐が切れるというアクシデントが発生!重石を失ったことで、風船おじさんは予定の高度を大きく越えて上昇してしまう。
焦った風船おじさんは飛び降り…なんてことはせず、5メートルの風船の紐をライターで切り、高度を落としていく作戦に出た。この思惑はなんとか上手くいき、風船おじさんは約24キロ離れた大田区の民家の屋根に不時着した。

不時着後、おじさん自体の被害は左手に軽傷を負う程度で済んだ。その後警察の人にはこってり絞られていたが、成功してれば次はハワイに行くつもりだったと宣言し、周囲を呆れ果てさせた。

ちなみに不時着された家は、屋根の瓦が何枚か割れて、アンテナも折れ曲がってしまったが、細かいことは気にしない風船おじさんはその被害者宅に謝罪及び弁償は一切なかったという。

■ファンタジー号事件

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1992年11月23日。
当時52歳の鈴木嘉和が、ヘリウム入りの風船を多数つけたゴンドラ「ファンタジー号」で試験飛行を行うことになった。

鈴木に電話で呼び出された同志社大学教授の三輪茂雄と学生7人、朝日新聞の近江八幡通信局長、前日から密着していたフジテレビのワイドショー『おはよう!ナイスデイ』取材班、そして鈴木の支持者らが琵琶湖湖畔に集まった。

この日の名目はあくまで200メートルあるいは300メートルの上昇実験ということだったが、120メートルまで上昇して一旦は地上に降りたものの、16時20分頃「行ってきます」と言って、鈴木はファンタジー号を係留していたロープを外した。
「どこへ行くんだ」という三輪教授に「アメリカですよ」との言葉を返し、重りの焼酎の瓶を地上に落とした鈴木は周囲の制止を振り切って、琵琶湖湖畔からアメリカネバダ州サンド・マウンテンをめざして出発した。

翌日は携帯電話で「朝焼けがきれいだよ」と連絡が取れたものの、2日後にSOS信号が発信され海上保安庁の捜索機が宮城県金華山沖の東約800m海上で飛行中のファンタジー号を確認したが、鈴木は、捜索機に向かって手を振ったり座り込んだりして、SOS信号を止めた。
ファンタジー号の高度は2,500メートルで高いときには、4,000メートルに達した。約3時間の監視をして、ファンタジー号は雲の間に消えたため、捜索機は追跡を打ち切った。

そしてそのまま行方不明である。


■その後の遺された家族は・・・
残された妻は鈴木の会社の共同経営者であり、家が抵当に入っていることもあり、鈴木の借金は、残された妻が払い続けている(2006年時点)。1999年の取材によれば、2年に1度の捜索願を家族が更新しており、鈴木は戸籍上は生きていることになっているという。

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